[1990年代の台湾] 親密な親子関係

日本では核家族化が進み、盆暮れに帰省する以外、肉親とはそれほど親密さを求めない傾向があるらしい。また、そんな風潮が許容され、親離れ、子離れの言葉と共に広く受け入れられている。

それに比べると、台湾では肉親との距離が近く、むしろそれが当たり前になっている。

ちなみに台湾には、親離れや子離れにしっくり当てはまる言葉はない。

そして、私が密接な家族愛があることに気付かされたのは台湾に来てからであった。

子供達からの餞別

妻を連れて日本に帰国する。

妻の両親も一緒の時がある。

その時には餞別と称して妻の兄弟達が銘々にお金を両親に包んでの見送りとなる。

挙動不審の兄弟達

ある年の秋が深まる季節、妻と兄弟達はにわかにざわつき始めた。

父親の不在時を狙って、階下で額を集めてひそひそと話し込み、父親が帰った途端に台所に立って食事の支度に取り掛かったり、受話器を取って電話を掛け始めたり、新聞を広げて読み始めたりして、何事もなかった素振りをする。

食後は父親の滅多に顔を出さない階上に上がり、ひそひそ話の続きが始まる。

内緒話の合間に見せる噛み殺したような笑いが気に掛かる。

怪しい。

きっと何かを企んでいるに違いない。

兄弟達の企ては父親の誕生日

堪り兼ねて妻に事情を聞いた。

彼女はニコニコと笑いながら顔を寄せて小声で「もうすぐ父の誕生日なのよ。それでね、今年はどんなプレゼントにしようかって、皆で相談してるとこなのよ」。

父の誕生日当日

父親の誕生日当日の夕刻、祝い金とケーキと孫達が歌うバースデーソングが食卓を彩った。

明かりを消した闇の中に置かれたケーキの蝋燭の炎が、皆の笑顔を照らし出し、歌のリズムに合わせて揺れていた。

誕生日翌日も続いた

一夜明けた翌日の昼を迎えようとする頃、追い立てられるようにして近くの四川料理レストランへ向かった。

個室を一部屋借り切ってある。

円卓上には既に食器、箸、ウーロン茶が用意され、後は家族全員の到着と、料理が運ばれてくるのを待つ。

落ち着かない体で椅子に腰掛けていると、家族がすっかり集まり、話し声と笑い声が部屋中を満たし、それを合図に料理が次々に出てきて、みるみる円卓を一杯にした。

昼食に飽き足らず、その日は昼食を消化し切れず胃もたれ感のまだ残る黄昏時、再び菜館へ向かった。

丁度この年の岳父の誕生日は週末で豪華版になり、ケーキやバースデーソングに続き、食事まで出揃って、彼は心も胃袋も幸せですっかり満ち足りたことだろう。

親の誕生日は家族そろって外食

このように親の誕生日に食事に連れ出すのはもはや定番。

父の日や母の日もまた然りで、どこの料理屋も親子連れで一杯だ。その上、プレゼントを送ったり、お金を包んだりする。

家族皆が支え合う

妻の両親も年齢を重ね、最近「父母基金」なる積み立てを兄弟達で始めた。

有事に備えてという趣旨の下、毎月定額を銀行口座に振り込む。

確かに台湾の年金制度は未整備で、老人達が広く平等に恩恵に浴するには程遠い。

時には日本人の考えを超越することもある

家庭によってそれぞれ違うが、台湾人の妻を持つ日本人の知人達の中には似通った事例を持つ人が少なくない。

しかし、時には日本人の旦那方を差し置いてまで、父母や兄弟に惜しみなく愛情を注ぐことがある。

そんな彼らの睦まじさに嫉妬し、不平不満が口から漏れ出すことさえある。

一人一人の善意と協力で、家族が成り立っている

そんな奥様方は中年以上。近年ようやく高度成長を遂げた国だから、子供時分の家族全員が互いに窮乏に耐えて、生きてきた事情が家族の絆を一層強固にするのだろう。

私、妻と両親が日本へ向けて出発するとき、家族全員の顔が揃って「行ってらっしゃい。」と手を振る。

両親の懐は子供達に貰った餞別で暖かい。

かたや私の懐は相変わらず冷えきったままだが、彼らを見ていると、胸がじんと暖まる。